駅の階段で…
東京に仕事で来ています。
三泊四日なので、大き目のキャリーケースを持参しました。
ホテルに向かう夕刻、山手線の電車に乗ったのが、ちょうどラッシュの時間帯にぶつかります。
品川駅で降りましたが、エスカレーターのある場所まで辿り着くのが難しいほどの 混み具合なのは、致し方ないのです。
もみくちゃになりながらも駅の階段を上っていると、ひょいっとキャリーケースが軽くなりました。
隣で階段を上っていた サラリーマン風の恐らく同年代の男性が 「持ちましょう」と、抱えてくださっていたのです。
「いえ、重いんで、大丈夫です」と言うも、「あなたは、ここを持って」と。
結局上まで、助けていただいたのです。
重そうだから持ってくれたのに、「重いから持ってくれなくていいです。」って、断ろうとしたりして、滑稽な話じゃありませんか。
あ、助けてもらってもいいんだ。
なんで、持ってもらう訳にはいかないって、反射的に思ったんだろう。
実は、荷物を持ってもらえる 甘え上手な か弱そうな女の人って、本当はどこかで羨ましかったのです。
だけど、私はいつもこんな場面では荷物を持ってもらえない役割だったから、「なにさ!自分の荷物ぐらい自分で持てば?」って、内心イラッとしている。
なのに、人の荷物は持ってあげなきゃ、とイイ人ぶってきたのです。
品川駅の階段の、下から五段目から上までの間に、そんなことを ぐるぐるぐるぐる考えていたのでした。
階段の上に到着したとき、遠慮しないで心から 「ありがとう」を言えた自分がちょっと嬉しかったのです。
そして、途中から観念して荷物を預けた私の心の内を知ってか知らずか、その男性の笑顔は「ほら、任せてよかったでしょ?大丈夫だったでしょ?」って、言っておられるようで、お礼を言って別れた後に、品川駅の構内で、スキップしたい気分になりました。
本当は、こうしてこれまでも「大丈夫?持とうか?」と手をさしのばしてもらってたのかもしれない。
「いえ、大丈夫です。」って、反射的に言ってたのかもしれない。
さらには声もかけにくいほど、バリアを張っていたかもしれない。
どうせ助けてもらえないでしょう?って、勝手に拗ねていただけかもしれない。
私、しっかりものだと言われます。
でも実はそんなに、というより 全くしっかりはしてはいないんです。しっかりしていると言われれば、言われるほど、もっともっと しっかりしなくちゃならなくなるのです。
だから甘えるのも、当然苦手なのです。
というか、「甘える」という選択肢を 勝手にどこかにしまっていたかもしれません。
勝手に、ですけどね。
「お姉ちゃんなのに!」
「もう、○歳なのに!」
「ちゃんと しなさい!」
そんな風に言われる事が多い、どちらかと言うと 不器用な子ども時代でした。
だけど、どう頑張ったらいいのか?
どういう完成形を求められているのか?
オロオロするばかりで、頑張れば頑張るほど、おかしな事になって、「ちゃんと できない ダメな ちょっと可哀想な子」という 結末だったんですね。
母親が私を表現する言葉は、「依頼心が強い子」「消極的ではっきりしない」
母親が望むような、ハキハキした自立心の強い しっかりした子どもには、なかなか なれなかったのです。
誰にも頼らず、弱音を吐かず、自分ひとりで 頑張るのが当たり前。
自分のことは、最後まで自分でやるのが当たり前で、誰かに甘えるなんて ダメな人。
そんなダメ人間に成り下がってはいけない。
頑張らないと、認めてもらえない。
ちゃんとできないと、見放される。
いつも そんな強迫観念にも似た思いが、心のどこかにあった…いえ、実は今もそんな観念が 執念深く居座っていることに 気づくのです。
大人になるつれて、「怖い」ながらも色んなことがことを自分でできるようには、なってきたものの、本当の自分は 弱虫のまま…。
もっと遠慮しないで甘えてもいい。
もっと弱い自分を出してもいい。
もっと本当のダサい自分で生きていい。
心が叫びたがっているのです。
でも、そうするのは、私には心底怖いことなのです。